1970年代から、日本映画の新しい才能を発掘し続けている映画祭が「ぴあフィルムフェスティバル(以下PFF)」だ。「PFF」をはじめたのは、映画、音楽、演劇等のカルチャーを対象とした情報誌の発行を主な事業として設立されたぴあ株式会社。同社の創立メンバーが企画した自主映画のイベントが、現在の映画祭にまでつながっている。その目玉となるのは、自主映画の公募コンペティションである「PFFアワード」だ。
本アワードは、黒沢清氏、諏訪敦彦氏や、今年の「カンヌ国際映画祭」でカメラ・ドール特別表彰された早川千絵氏など、のちに日本映画界を牽引していく監督たちを、時代ごとにいち早く発見してきた。
1990年に「PFF」に参加し、1992年より30年にわたりディレクターを務める荒木啓子は、映画祭およびアワードの屋台骨である人物だ。歯に衣着せぬ語り口とともに映画祭の「顔」として知られる荒木氏に、「PFF」への想いや特徴、近年の新たな試みなどを尋ねた。
取材・文:宮田文久 写真:タケシタトモヒロ 編集:井戸沼紀美(CINRA, Inc.)

「新しい才能を見てほしい」。1970年代から引き継がれた想い
――映画祭としての「PFF」は主に、自主映画の公募コンペティションである「PFFアワード」と、国内外の映画や監督をその年ごとのテーマでキュレーションして紹介する招待作品プログラムの二軸で構成されています。とくに1977年から開催されている自主映画の公募部門は、「PFF」のインディペンデントな精神を象徴していますね。
荒木:「PFF」は、「PFFアワード」のために開催しているといっても過言ではありません。もちろん招待作品プログラムも大事にしています。けれど同時に、すべてのプログラムを「いま映画を志している人に見てほしい」「アワードの入選者に見てほしい」という基準で組んでいるんです。
映画祭の中心に、有名な監督や作品ではなくこれから映画をつくろうとしている人たちがいる、というのが「PFF」の特徴だと思います。極端な話、「PFFアワード」に応募してくれる人がいなくなったら、映画祭も終わりますよ。アハハハハ!

――1977年には、東映大泉撮影所を会場に、音楽、演劇等の催しが集まったイベント「第一回ぴあ展」がぴあ社によって開かれ、大島渚や寺山修司、大林宣彦らの作品が上映されました。そうしたプログラムのひとつとして開催されたのが、「PFF」の前身ともいえる「自主映画製作展」です。
荒木:私は1990年に「PFF」に参加した人間ですから当時のことをリアルタイムでは知りません。ただ、1972年、大学の映画研究会にいた学生たちが、映画館の上映プログラムなど、エンターテインメント情報を集約した情報誌『ぴあ』を発売し始めたのが「PFF」のすべての始まりだと言えるでしょう。
当初は苦しい状況でしたが、エンタテインメントに興味を持つ若者の間で『ぴあ』は徐々に評判となり、その情報誌の収益をつぎ込んで映画祭を開こうとしたんです。当時の人気雑誌による映画祭ですから、読者はポピュラーな映画を上映するのだと思ったのではないでしょうか。
――ところが、実際は違った。
荒木:ビックリ仰天、監督の名前も知らない自主映画の映画祭だった。情報誌『ぴあ』を通じて公募した自主映画をスタッフが審査し、12本の入選作品をオールナイトでお披露目するというものです。映画好きの創業メンバーたちが「才能のあるつくり手たちが、どうして脚光を浴びないんだ」と感じていたからこそ、この映画祭が生まれたのだと思います。

『PLAN 75』早川千絵監督も受賞。入選作品はどのように選ばれる?
――「PFFアワード」はこれまでに数多くの才能を輩出してきました。たとえば『PLAN 75』で2022年「カンヌ国際映画祭」で「ある視点」部門のカメラ・ドール特別表彰に輝いた早川千絵監督は、2014年に短編『ナイアガラ』で「PFFアワード」のグランプリを獲得しています。(参考:2022年「カンヌ国際映画祭」、日本映画の健闘を振り返る https://jff.jpf.go.jp/ja/read/news/cannes2022/)
荒木:早川さんの作品は、しっかりと「自分の眼」を持っていましたね。「PFFアワード」の審査は、例年十数名ほどのメンバーが3月から約4か月間かけて作品を観て、計3日間に渡る1次審査・2次審査の議論を行ないます。この審査を担当するのが「セレクション・メンバー」です。
その話し合いに参加した後、ディレクターである私がさらに悩んで入選作品を決定し、その後、5名のゲストに最終選考をお願いしています。この方々が、いわゆる「最終審査員」です。そうした審査の過程でも『ナイアガラ』からは、「監督が世界をどう見ているのか」がハッキリ伝わってきました。

――「PFFアワード」には、作品の長さやジャンル、応募者の年齢・性別・国籍といった制限がありません。審査は大変ではないですか。
荒木:難しいです。アニメーションあり、ドキュメンタリーあり、ドラマあり、実験映画あり。長さもまちまちですから。その多様性は、ここ10年ほどでさらに加速している気がします。カメラの性能はどんどんよくなっていますし、スマホやSNSが普及したことで、被写体も映像に撮られることに慣れてきている。技術が自由と多様性をもたらしているのかもしれません。だからこそ、審査の議論はどこまでも割れていきます。
審査に関わるメンバーはとても熱心に作品を見てくれます。そして、なぜその作品に心を動かされたのか、どうして推薦したいのかを、徹底的に言葉にして話し合う。仮に自分が心を動かされなかった作品でも、ほかのメンバーがまったく別の基準で見て語ることで、思わぬ「発見」を得る。どんどん映画の見方が変わり、視野が広がっていく……このプロセスが、すごく大切なんですね。

――審査に関わるメンバー自身が、自主映画にかんする発見をしていく過程こそが、選考なのですね。
荒木:そうですね。あと、絶対に多数決をとらないんです。数が多いものを選ぶというパワーゲームは、個々の視点を大事にするべき創作物に対してやってはいけない行為だと考えています。クリエイトする人、何かを生みだす人に対して、敬意を払うということです。この敬意がなくなったら、「PFF」は終わりです。
――多数決なきセレクションなのですね。
荒木:どんなに話し合っても、ある瞬間に議論が振り出しに戻ったりするので、本当に難しいですけどね(笑)。とはいえ、入選作品は決めなければいけません。1次・2次審査で計3日間の議論を終えたのち、できるだけ各自の意見を残すかたちで、かつ「映画祭のプログラムとして何を上映するべきか」という観点でディレクターの私が入選作品を考えます。
審査での議論を思い返し、作品を見直し、ときには「なぜあの作品を推したの?」とあらためてセレクション・メンバーに聞く。それが「PFFアワード」における私の役割のひとつです。
「PFF」2021年の特別映像。「PFF」では入選しなかった作品についても、応募者に対して「最初の観客」になった選考メンバーからのコメントを送っているという
「映画を撮ることは、きちんと相手を見るということ」
――今年の「PFFアワード2022」は応募総数520の自主映画が集まり、16の入選作品が発表されました。監督たちのプロフィールを見ると、映画・映像を専門とする学生や社会人はもちろん、フリーターの人や物理学を専攻している学生など、さまざまですね。
荒木:今年は映画学校で映画を学んでいない人たちもかなりいましたね。不思議に思って、今年入選した監督たちに聞いてみたんです。そうしたら、「コロナで大学に通学できなくなって時間ができた。以前から映画を撮ってみたかったので、その時間で挑戦してみました」という人がいました。コロナ禍で行動が制限されるなかでも映画を撮り始めた人がいるんだという事実には、感動しましたね。
学生に限った話ではないですが、映画は、撮ったほうがいいんです。映画を撮るということは、きちんと相手を見る、相手の話を聞く、そのうえで自分の考えをちゃんとまとめるということですから。この作業がもたらすものの大きさは計り知れない。コロナもあって閉塞感に溢れた社会ですが、多くの子どもたちが映画を撮っていけばそんな雰囲気も変わっていくと、私は信じています。

――入選作品は例年、「PFF」の会場でスクリーン上映されます。コロナ禍に見舞われた2020年以降、今年2022年も、オンライン配信などの取り組みと同時に、会場での上映を続けてこられました。これはなぜでしょうか?
荒木:どこまでいっても映画祭の意義は、「スクリーンで上映する」ということに尽きると思います。これからは、つくった映像をスクリーンで上映する体験をしない人も増えていくことでしょう。でも本来、巨大なスクリーンで、まったく知らない大勢の人と映像を見るところに、映画の力は宿ると思っています。
作品のどこで笑うか、どこで泣くか、どこで反応するか。自分と他人の価値観の違いが、静かに、しかしはっきり体感できる空間が映画館です。全身でそんな体験ができる場所は、ほかにはなかなか見つけられないのではないでしょうか。
ちょっと話は変わりますが、つくり手もお客さんの反応を体感することで変わります。たとえば「PFFアワード2021」でグランプリを獲得した『ばちらぬん』の東盛あいか監督は、スクリーン上映を通じて変化していった人の一人でした。最初はガチガチに緊張して、壇上でもほとんど喋れなかったんですが、その後「東京国際映画祭」や各地の劇場公開で場数を踏み、メディアのインタビューにもたくさん答えて、いまではとても話が上手です。映画祭は、人としても監督としても、一気に大きくなっていくチャンスになり得るのではないでしょうか。
「大島渚賞」新設も。「映画と一緒に国境を越えていってほしい」
――2019年に「PFF」が映画祭とは別に創設した「大島渚賞」についてもお話をうかがえますか。さまざまな出自をもつ映画人からの推薦により候補監督を選出したのち、音楽家の坂本龍一さん、映画監督の黒沢清さん、そして荒木さんが「新しい道を切り拓こうとしている」日本の映画監督1名にこの賞を贈っています。
荒木:「PFF」は、大島渚監督に恩義があるんです。1977年のスタート時、自主映画の映画祭をやれば映画プロデューサーがやってきて、若い才能に声をかけていくかと思いきや、そういう人はなかなか来てくれなかった。
そんななか、「PFF」が提唱した「映画の新しい才能の発見と育成」に興味を持っていただけたのが大島監督で、最初期である1979年から審査員として公募作品の選考を引き受けくださいました。国際合作映画『愛のコリーダ』(1976)や「カンヌ国際映画祭」最優秀監督賞を受賞した『愛の亡霊』(1978)で、世界的に話題沸騰していたときですよ。しかもいまのように、自宅にいながら応募作品を見られる時代じゃない。
大島監督にも当時のぴあの小さなオフィスでみんなと一緒に8ミリフィルムを見ていただいたわけです。この大島監督の熱意と、常に世界を見つめた映画製作に準じていただきたいとの願いから、大島渚賞は創設されました。なおかつ審査員として大島渚をリスペクトする坂本さんと黒沢さんがいるからこそ、この賞があると思っています。

――「PFF」は新人を世界へ紹介するバックアップを続けてきましたが、これからも「PFFアワード」や大島渚賞から才能が羽ばたいていくといいですね。
荒木:映画は、簡単に国境を越えるんですよ。だから、恐れないでほしい。みんなどんどん、映画と一緒に国境を越えていってほしいですね。
荒木啓子
1990年に「PFF」に参加。1992年、「PFF」初の総合ディレクターに就任。以降、日本の「自主映画」文化を国内外に紹介し続けている。
